ひろしまの遺跡 第81号


 前号で,広島県内で“城”の多いところ,少ないところを,市町村別の遺跡密度(城館遺跡数を各市町村の面積で割って出した割合)を使って考えてみました。しかしこの方法では,人の住んでいない山地の多い市町村の実態をうまく反映できない。何とかならんじゃろうか。というところで紙面が尽きてしまいました。今回はその続きです。  できれば単に“城”が多い少ないだけではなく,その状況が地域に住んでいた人にとってどういう意味を持っていたのかを考えていきたい。そのためには人との関わりを示す資料で城館遺跡の数を比較したい,と資料をさがしていたら,1615年の県内各村の石高数をまとめたもの(「安芸国備後国知行帳」)が目に留まりました。1615年といえばすでに江戸時代で,正確な意味では中世とは状況が違っていますが,中世後期の状況を考えるうえで参考にはなるでしょう。この資料を使って各村の石高を比較すれば“耕地面積”≒“耕地を維持する人口”が比較できるのではないだろうかと考え,それと城館遺跡の数を比べて作成したのが下の図です。この数値は,現在の市町村の範囲で“城”ひとつにつきどのくらい石高があるかを表しており,数値が高いほどひとつの“城”がより広い耕地面積(≒人口)を担当していた,言い換えると,数値が高い地域ほど“城”が少ないということでもあります。



 これをみると,前号でみた1km2あたりの遺跡密度が東高西低だったのに比べると,東西では差がないようです。最も数値の高かった世羅郡世羅町も他の市町村とあまり変わらない数値を示しています。世羅町で城館遺跡が多かったのは“石高”≒“人口の多さ”が原因だったのかも。今回の検討で第1位となったのは賀茂郡大和町でした。県平均と比べるとおよそ3倍強です。耕地面積の少ない島では当然ながら低い値,すなわち遺跡が集中していることを示していますが,…うーん…,この方法では田畑で農業を営む人しか検討の対象にならないから,漁業や林業・商業で生計をたてている人が多い地域は評価が難しいなぁ。そういう意味では,この方法も失敗か…。  ただ,図の中で石高のわりには遺跡数の少ない市町村をながめていると,前号で検討した遺跡密度の低い市町村と重なる地域が気になりました。その中の一つ,県南西部の大竹市や佐伯郡大野町は,分析方法を変えても遺跡数が少ない結果となっています。なぜこの地域は城館遺跡が少ないのでしょうか。  その理由は,この地域だけにみられる事情の中に求めることができるでしょう。ちなみに,この地域に戦争が特に少なかったわけではありません。となると,やはり対岸の宮島にある厳島神社の領地がこの地域に多いことが一番の原因かもしれません。この地域には鎌倉時代以前から厳島神社という大きな権力が存在しており,これに対抗する有力な国人領主が育つ余地がなかったことが,城館遺跡の少なさとして表れているのでしょう。ただ,同じ厳島社領の多い佐伯郡佐伯町ではやや城館遺跡が多いようですが,それは,この地域が郷村自治を発展させ,一つの大きな勢力として成長しつつあったことと関係があるのかもしれません。  その他の地域では,その時々で支配・被支配の関係はあっても,厳島神社と対岸の地域のような長期にわたる関係はありませんでした。そのため,領主や,その地域に住む人々が,自らの権益を守るため,たくさんの“城”を築いていったものと思われます。 以上,全県的な視点で城館遺跡の分布について考えてきました。瀬戸内海沿岸の地域についてはもう少し検討が必要ですが,分析方法を変えても常に遺跡が多いというような地域はみられませんでした。逆に,“城”の少ない地域はある程度わかってきたのではないでしょうか。今後,考察をより深めていくためには,もっと狭い地域に焦点をあわせてみなければならないでしょう。市町村の枠にとらわれずに,より狭い地域を対象にするならば,今回のようなやり方をしなくても,地図をみれば,例えば“城”の多い谷筋とか,逆に“城”がまったくない平野部とか,一目瞭然でわかります。それがなぜなのかを考え,それぞれの地域の歴史を積み重ねていくと,また違った“広島県の中世”の姿が見えてくるかもしれません。でもこれ以上は残念ながら,今の私にとっては荷が重い。もう少し時間をかけて勉強してから,検討していきましょう。  え,紙面がもうないって。ちょうどよかった。それでは続きは,またいつか。

(尾崎光伸)(現広島県教育委員会文化課指導主事)

参考文献
・『広島県史 中世編』 1984
・『広島県の地名』 平凡社 1982